ぼくたち、わたしたちの未来、勉強中です!

事務局

「ショコラボ」は、センター南駅から徒歩15分くらいのところにあります。取材をしたのは全部で3か所。工房と、箱詰めをするための部屋(マンションの中にありました)と、お店です。工房では、障がい者の方々が働いていました。

「ショコラボ」という名前には、チョコレートを意味する「ショコラ」と、「コラボレーション」の意味が含まれています。また、「コラボレーション」にも、「健常者と障がい者のコラボレーション」「プロフェッショナルと障がい者のコラボレーション」という2つの意味があります。これは、会長である伊藤紀幸さんの大切な想いです。 伊藤さんには、障がいを持った息子さんがいるそうです。障がいのある人が仕事をしても安いお給料しかもらえないのを知って、息子さんが大人になった時、障がいのある人でも生き生きと働けるような会社を作ろうと考えたんだそうです。伊藤さんは当時、銀行で働いていましたが、会社勤めを辞めて、会社を作るために10年もかけて(すごい!)準備して、不動産などの仕事でお金を貯めました。

最後の4年間は、どんな会社にしようか、とても悩んでいたそうです。そんな時、居酒屋ワタミの会長さんに言われた「頭で考えたことは失敗したが、心で感じたことは成功した」という言葉が心に残りました。そのことを奥さんに話すと、「パパはチョコレートが好きだから、チョコレートを作れば」と言われ、チョコレートの会社を作ることに決めたそうです。

工場では、チョコレートをすべて手作業で作っています。一番大変な作業は、「テンパリング」(溶かす)という作業で、ずっとチョコレートをかきまわしているんだそうです。その後、型を使って色々な製品を作っていきます。

ショコラボの基準はとても厳しく、大きさが違ったり、チョコレートが少しでもブルーミング(白っぽくなってしまうこと)してしまっていたりすると、商品として提供できず、アウトレット品になってしまいます。僕はアウトレット品になったものを味見させてもらいました。こんなにおいしいのに、一般の商品として販売されないことにとても驚きました。

チョコレートを作る際に一番大切にしているのは、食感なのだそうです。カカオ豆から作るBea to… 続きを読む

横浜の山下公園の向かいにある、ホテルニューグランドに取材に行きました。 私は、映画「ツナグ」のロケ地として、その美しく立派な内装と家具を映像で知っていたので、ホテルニューグランドは憧れの場所でした。いつかこの素敵なホテルに行ってみたいと思っていたので、取材の前日から楽しみでウキウキしていました。 ホテルニューグランドは、大正末期に建設がスタートして、1927年(昭和2年)に開業しました。当時は本館のみで、横浜港に船で来た外国からのお客様が多く宿泊していました。このホテルは戦争の空襲のなか建物が残りました。そのため終戦後マッカーサーなどアメリカ軍の宿泊に使われる事となりました。その時にホテルの資料などはアメリカ軍に持ち出してしまったため、開業から戦後までの事があまりわからないそうです。

このホテルでは、戦後いろいろな食べ物が生み出されてきました。ドリア、プリンアラモード、ナポリタンです。ドリアは、なんとこのホテルに泊まりに来たお客様が体調を崩して「喉どおりの良いものをください。」といわれたとき、生み出された料理です。 体調の悪いお客様のためにわざわざ新しいメニューを作るなんて、めったにない親切な対応だと思いました。 私は、ホテルニューグランドの取材で、ホテルニューグランドの歴史の長さや、おもてなしの良さを知ることができました。次はホテルに泊まってその良さを生で感じてみたいです。

取材&記事:田岡優月

ホテルニューグランド https://www.hotel-newgrand.co.jp/

ホテルニューグランドが開業したのは、昭和2年(1927年)12月1日。当時は関東大震災によって莫大な被害を受け、東京の一部になるという話もあったなど、崩壊寸前だった横浜に希望をもたらしたのがホテルニューグランドでした。日本好きだったチャップリンや、日米野球で来日したベーブルース、マッカーサーなど、さまざまな有名人も宿泊した横浜のシンボルといえる存在です。

そしてホテルニューグランドのシンボルマークは、震災を乗り越え復興した横浜の象ちょうにふさわしいフェニックス・不死鳥です。現在のホテルニューグランドは、タワー館(1991年)が完成し、進化しつづけています。タワー館の最上階にはチャペルがあり、多くの人が結婚式を挙げています。

また、ホテルニューグランドは多くの料理を生み出しました。代表的な料理が、シュリンプ・ドリアです。日本人の主食であるごはんに、小海老のクリームをのせ、当時ヨーロッパで人気のあったグラタンソースをかけて焼き上げたもので、人気料理となりました。他にも、ホテルニューグランド発祥のスパゲッティ・ナポリタン、プリンアラモードなどが日本全国で親しまれています。

取材&記事;長谷川路彰

ホテルニューグランド https://www.hotel-newgrand.co.jp/

9月5日第一土曜の工場直売会が行われている日に、丸紀製麺の工場へ取材に行きました。

丸紀製麺は、ブルーラインの新羽駅から、徒歩で約12分のところにあります。 主にうどん・そば・ラーメン・焼きそばを製造・販売しています。 この工場で働いている常務取締役の川口尚紀さんに話を聞きました。

川口さんによると、なんと!!3万食もの麺を1日に作っているそうです。

会社を始めたきっかけは、川口さんの祖父がでんぷん工場を営んでいたことでした。 川口さんのお父さんが、そこで使っていた小麦で何を作れるか考え、麺をつくる工場へと発展させたのだそうです。

僕たちは、工場で麺を作る工程を見せてもらいました。… 続きを読む

スマホケースやイヤホン・充電器などを専門として作っている、仲町台の株式会社PGAを取材しました。PGAは震災の年の2011年に設立された会社です。仲町台に会社を建てた1番の理由は、地盤のしっかりした、災害に強い土地を探し、津波被害もない都筑区が安心だと思ったからだそうです。

PGAは、携帯電話やデジタルオーディオ端末等のアクセサリ販売会社としてスタートした会社ですが、取扱商品は最新のスマートフォン用アクセサリだけではなく、タブレット端末やオーディオプレイヤー、ゲーム機などに対応したアクセサリなど、どんどん開発されています。仲町台の本社では、商品の企画開発、管理などを行い、製品は主に中国の工場でつくっています。

今回、商品部の広報担当、日岐菜津美さん(ひきなつみさん)と商品部・部長の朝山宗信さん(あさやまむねのぶさん)に取材対応いただきました。商品部では、いつも新しい企画を考えているそうで、ジュニア記者が「これからやろうとしている企画は何ですか?」という質問をしたところ、「企業秘密なのですべては教えられないのですが、季節にあった商品、たとえばオフィスや自宅でも使えるUSB加湿器などを考えています」と教えてくれました。

猛暑が続くなか、小さいのに涼しい「ポータブルファン」というミニ扇風機が流行っていますが、その製品もPGAで作っています。現物を見せてもらいました。風量が弱・中・強と変えられ、一回の充電で最大11時間使える、優れものです。他にもiPadで使うペンなども試させてもらいました。

会社に入ってすぐのフロアに、吹き抜けている壁一面にものすごい数の携帯電話のケースが展示されていて、その数に圧倒されました。地元のスポーツチームの応援もしていて、バスケの「横浜ビー・コルセアーズ」野球の「横浜DeNAベイスターズ」などのグッズもありました。シンプルなデザインのものから、ディズニーなどのキャラクターのかわいらしいものまで、ここにあるものだけでも3000種類以上があるそうです。カバーにマグネットがついているタイプのスマホケースは、PGAの特許です。

最後にジュニア記者ひとり一人が気に入ったスマホケース選び、記念撮影をしました。11人全員が違うデザインを選びました。

お店では「Premium Style(プレミアムスタイル)」と書いてあるスマホケースが、PGAの商品です。今度お店で探してみようと思いました。… 続きを読む

都筑区のセンター北にある、横浜市歴史博物館に取材に行きました。博物館は、平成七年(1995年)に開館しました。

博物館には、企画展としておよそ2ヶ月に1回展示物が変わるスペースがあります。その展示物は、いろいろな博物館で借りて、集めた物もあります。展示物を何にするかを決めてから2年ほどかけて準備して、企画展が行われます。今回の企画展では、市役所の新市庁舎を建設していたときに見つかった、関東大震災の頃のお皿やコップ、空き瓶などが展示されていました。

2階には常設の展示室があります。こちらには模型が置いてありますが、スペースがすこし暗いのは、展示物が光に弱いものが多いからだそうです。明るい光を当てると形がくずれやすくなったり、色が変わったりしてしまうからです。

歴史博物館の主な展示物は3万年前から百年前くらいのものです。3万年前と言うと、氷河期です。 そんなに昔のものがあると知ってびっくりしました。

博物館に取材に行くまでは、裏側のことを想像できませんでした。

裏側への入口は、《staff … 続きを読む

今回は、都筑区内でミミズクと暮らしている岩貞さんのお宅をオンライン取材させてもらいました。岩貞さんは、テレビを見ていて、ミミズクを飼ってみたいな〜と思い、インターネットで調べて、卵から予約し、自宅で育てられるようになる2ヶ月弱のときから飼い始めたそうです。名前は「寅」。寅年だったこと、柄が寅に似ていることからつけられました。

家は高台にあり、まちを見下ろせるベランダで飼っています。以前はベランダも囲いをつけずに、アウトドアで使う長いロープを足にくくりつけて飼っていましたが、ときどきかなり遠くまで飛んで行ってしまうこともあったので心配になり、ベランダ全体を小屋に改装しました。 当日は、実際にとらちゃんを間近に見ることができました。取材中は、いつもと違う画面から私たちがのぞいていたからか、緊張して飛んだり鳴いたりしていました。暗くならないと行動しないかと思っていましたが、とらちゃんは明るい中でも元気そうでした。

峯岸里沙さんのレポート

私がいちばん衝撃的だったのは、ミミズクが緊張すると「ワン」と鳴くことです。ミミズクが鳴くかどうかわからなかったので驚きました。ミミズクの餌はうずらの親鳥で、ペットショップに売っているそうです。それをにぎりこぶし1コ〜2コ分くらいあげるということがわかりました。 私が調べたことで、「ミミズクは羽を広げると1,5メートルにもなる」のは本当かどうかを聞いてみました。岩貞さんも一度だけ、とらちゃんが大きな羽を広げて飛んでいるのをみて、その大きさに驚いたそうです。「1.5メートルくらいあったと思う」と言っていました。羽が1.5メートルも広がることがわかり、とても楽しいミミズクの取材でした。  

広瀬文香さんのレポート… 続きを読む

横浜みなと博物館は「歴史と暮らしのなかの横浜港」をテーマに展示しているほか、横浜の港と船を愛したデザイナーで画家の柳原良平さんの作品を展示する「柳原良平アートミュージアム」もあり、様々な角度から横浜港をみることができます。この博物館は、日本丸を海から見ることができるようにと建物自体が地下に作られています。

入口には、柳原良平さんのイラスト「アンクル船長」がマスクを着けてお出迎え。どうやらアンクル船長も感染予防はしっかりとしているようです。博物館は、1階と地下1階に分かれていて、1階には柳原良平アートミュージアムと「空から見た横浜港」が、地下1階には横浜港の歴史や役割について学べる7つのゾーンと操船シュミレーターなど、体験することができる場所があります。

では、この博物館を管理している学芸員さんの主な仕事とスケジュールはどのように組まれているのでしょうか?

学芸員さんは博物館が開館する10時より1時間はやく、9時には博物館に来ているそうです。そして、9時45分にスタッフミーティングがあり、10時に博物館を開きます。お客さんが館内にいる16時半まではバックヤードで仕事をしているそうです。私たちが博物館で学びを深められている裏側には学芸員さんの苦労や努力があるのですね。学芸員さんは博物館の、縁の下の力持ちといっても過言ではないでしょう。

この博物館のある日本丸メモリアルパークにはもう1つの見所があります。それが、航海練習船「帆船日本丸」です!

日本丸は1930年に造られ、その美しい姿から「太平洋の白鳥」と呼ばれていたそうです。日本丸はおよそ50年間活躍し、1984年に航海練習船としての役割を終え、今はその活躍を多くの人に紹介するための「第二の人生」を送っています。日本丸の船内には当時の訓練の様子や歩みなどが解説されているほか、航海していた時の船室がそのままに展示されています。

今回、スマートフォンを通してのオンライン取材ということで、いつもと違う環境のなかで緊張することも多くありましたが、普段聞くことができない学芸員さんの仕事内容など、オンラインだからこそ知ることができたこともありました。

これからの、博物館と日本丸の更なる活躍に期待したいです。

記事:菊池直希

私たちジュニア記者は、横浜みなと博物館にオンライン取材をしました。

横浜みなと博物館は、横浜港をテーマにした初めての博物館です。「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマに、横浜港に関する調査・研究、資料・図書の収集・保存・展示・公開、教育活動を通じて、一人でも多くの人が、横浜港を知り、考え、楽しむことができる博物館を目指しています。館内には、横浜の港と船を愛したデザイナーで画家の柳原良平さんの作品を展示する柳原良平アートミュージアムもあります。その他にも、特別展示室でその時限定の展示をしたり、横浜に関係ある船や客船の模型を展示したりしているそうです。

取材には、学芸員の奥津さんが対応してくれました。

Q:日本丸は、いつ出来たのですか? A:帆船日本丸は、1930(昭和5)年にできました。日本丸は、船員を養成する練習船で、1984(昭和59)年に引退するまでの54年間に、一万千五百名もの実習生を育て上げました。

Q:日本丸は、今でも動くのですか? A:毎年、船としての検査をしていて、法律上、動かして良いことになっています。実際に帆を使って航行することができますが、ドックの外に出るためにはドックの扉や橋を動かしたり、浅瀬を深く掘ったりする必要があります。

Q:横浜港やその周辺は、どうして発展したのですか? A:横浜港は、それぞれの時代に絹の原料となる生糸や、自動車などを外国へと輸出することで発展しました。港が発展すると、周りにも段々と人が集まって来るので、町も発展して、賑やかになったのです。

質問をする中で、記者から「横浜の海には魚がたくさんいるから、魚も展示できませんか?」という提案も出されました。学芸員さんは、「生き物を、博物館内に展示するのは少し難しいかも知れないが、屋外なら可能かも知れない、検討していきたい」と答えてくださいました。

記事:宮下愛彩

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